現実が小説を凌駕した社会

現実が小説を凌駕した』と私は考えている。

事実は小説より奇なり
という言葉はあるが…
これは過去の作家の怠慢、或いは想像力の欠如だとすら思う。
それぐらい、現代の出来事は想像できないことで溢れている。
まあ、この言葉はイギリスの詩人バイロンの
”Fact is stranger than fiction.”
の和訳のようだが。。。

1997年1月〜7月
読売新聞に村上龍の『イン ザ・ミソスープという物語が掲載された。
スクリーンショット 2014-01-15 19.52.09
そのあとがきで村上龍はこう記載している(以下)。

「この作品の途中、フランクが歌舞伎町のパブで大量殺戮を実行しているときに、あの神戸・須磨区事件が起きた。
そして、連載の終わり近くフランクがこれまでの半生を告白しようとするときに、十四歳の少年が容疑者として逮捕された。
(中略)
想像力と現実がわたしの中で戦った。
現実は想像力を侵食しようとしたし、想像力は現実を打ちまかそうとした。
そういうことは、二十二年間小説を書いてきて初めてだった。」

フランクとは、この物語に出てくる外人の名前である。
そして、あの神戸・須磨区事件とは、
酒鬼薔薇聖斗”による神戸児童連続殺傷事件である。
そして村上龍は、この小説で日本の三大文学賞のひとつ読売文学賞を受賞する。
残り二つは、芥川賞野間文芸賞である。

さてこの時、現実は想像力を凌駕しただろうか?

私は、引き分けだと思う。
何故なら、『イン ザ・ミソスープ』を読んで頂ければ分かるが、フランクと酒鬼薔薇聖斗は不思議なくらいシンクロしているからだ。

じゃあ、現在は?

文頭でも述べた通り、現実が小説を凌駕したと思う。
まず、私たちは多様化し過ぎている。
私たちの価値観や思考、行動、また趣味趣向は多岐に渡り、括ることが困難である。
例えば90年代、J-POPは全国民に浸透しているといっても過言ではないだろう。
しかし現在、そういった全国民に浸透するものがあるだろうか?
私は”ない”と思う。
日本には、何かが浸透するという土壌が既にない。

また、日本から共同体という概念は消えた。
(しかしながら、未だに共同体を完全に捨てれきれない日本人は多い。)
以前の”集団の中の個人”から”個人の集まりの集団”へとシフトしている。
現在は、みなが個人として生きる時代である。

つまり、日本には基本がない、多様化した国民は一人一人が異常な存在だ。
勿論、ある程度はカテゴライズできる。
しかし、それは年を増すごとに細かくなってきている。

小説は、この多様化した国民を描き切ることができるだろうか?
未来の影を察知し、現代に警鈴を鳴らすことができるだろうか?

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